S席:¥6,000 A席:¥4,500 B席:¥3,000
Y席:¥1,000(24歳以下・当日券のみ)
<インフォメーション>
[開場時間]開演の45分前
[演奏会時間]およそ2時間(休憩を含む)
2013.7.5 (金) 6:45pm
<ハイドン:ロンドン・セット・ツィクルスI>
ハイドン: チェロ協奏曲第1番ハ長調 Hob.VIIb-1*
ハイドン: 交響曲第93番ニ長調 Hob.I-93
ハイドン: 交響曲第100番ト長調 Hob.I-100『軍隊』
プレトークのお知らせ
コンサートに先立ち、今回の指揮者・ソリストである鈴木秀美さんのプレトークを舞台上にて開催いたします。
ハイドンの作品について、現代を代表する古楽奏者の口から語られる魅力にご期待ください。
[5日(金)]6:25pm~
ハイドンのチェロ協奏曲第1番と《ロンドン・セット》について
鈴木秀美
名フィルの<しらかわシリーズ>、前回私が指揮したのはシューベルトのツィクルスでしたが、今回はハイドンの《ロンドン・セット》、それと併せて協奏曲の数々をお楽しみいただく予定です。
まずはじめはチェロ協奏曲ハ長調、この作品は1762~65年頃に作曲されたと考えられていますが、そのきっかけとなったのは、ハイドンより数週間遅れてエスターハーズィ家にやってきた8歳年下のチェロ奏者、ヨーゼフ・ヴァイグルでした。彼の作品は知られていませんが、相当高い技術と表現力を持っていたであろうことはこの曲からも明らかです。彼は1761年から69年までエスターハーズィの楽団に在籍し、初期の交響曲、例えば6~8番に出てくる独奏パートや、事実上完全なチェロ協奏曲である第13番の第2楽章なども彼が受け持ったと考えられます。
ご存知の方も多いと思いますが、この協奏曲は約200年も眠っており、1961年に手稿譜がプラハで発見されてようやく存在が明らかになったという特殊な経緯を持っています。再発見の初演は1962年のミロシュ・サードロ、日本初演は66年に平井丈一朗氏と森正指揮日本フィルハーモニーでした。ハイドンについて大部の研究書を著したロビンス・ランドンは、この曲のことを「20世紀最大の発見」とさえ言っています。
長らく忘れられていたために、ロマン派時代の解釈や編曲などを受けず現代へとやって来たのはまことに喜ばしい事のはずでした。しかしながら、曲の発見からほどなく出版された楽譜はいわゆる原典版の姿勢を取っておらず、監修者の手が様々に加えられたもので、発見された手稿譜や同時期のハイドン作品などから想像される趣味とはかなり異なったものが世界中に広まってしまいました。その典型的な例は冒頭旋律のスラーです。
これは第一ヴァイオリンのパート譜の出だしです。自筆スコアはなく、独奏チェロの楽譜とオーケストラのパート譜は違う人の手によって書かれていますが、ソロの楽譜には殆どスラーがありません。しかしハイドン自身、一般的にスラーの書き込みは非常に少なく、その旋律が初出の時のみ、或いは主たるパートにのみ書き込まれるということもしばしばです。ですから、冒頭のヴァイオリン・パートのスラーは当然、後から出てくる独奏にも、また展開部にも適用されると考えるべきでしょう。そのように楽譜を見ていきますと、一般的に聴き慣れているものとはアーティキュレーションが随分違っていて、この曲が溌剌としつつもエレガントなものであることが判ってきます。
現代の殆どの演奏ではこのスラーを切って鋭く弾き、全体にできるだけ大きな音で弾こうとすることが多いのですが、表現がどこか激しい傾向になる理由の一つはオーケストラの編成にあります。作曲当時、エスターハーズィ楽団の弦楽器はヴァイオリンが6人、ヴィオラ以下が1人ずつでした。ハイドンはヴァイオリンを弾きながらリードし、鍵盤楽器は劇場作品以外には使われなかったと考えられています。当然ヴァイグルは、独奏部分だけではなくオーケストラのバスも弾かなければなりませんでしたが、それは18世紀のコンチェルトではごく普通のことでした。譜面をよく見ると、ソロ・セクションが終わると数拍休んで次の小節からバスに加わるようになっていたり、カデンツァ直前はヴィオラが代わりに弾くようになっていたりしていて、独奏者のことを配慮しているのが判ります。チェロがソロの部分ではコントラバス(ヴィオローネ)のみが低音を受け持っていたのです。8フィート(チェロと同音域)のバスとしてファゴットが参加していた可能性もありますが、この曲には必要ないと私は考えています。
このような編成での協奏曲は室内楽のようなものであり、音量で勝負するような扱いとは別世界です。10人で弾くものを60人で弾いても良い曲であることに違いはないかもしれませんが、『良い演奏』の定義は大きく変わってしまいます。当時の楽譜と当時の編成、そして当時の楽器が教えるものは限度や制約ばかりに見えますが、それらを再現してみると、自然で新鮮な楽曲の姿が現れ、演奏の求めるべき道が示されるのです。今回のシリーズでは、エスターハーズィ楽団と全く同じ小編成にはしませんが、それでもかなり小さくし、またチェロは(危険は承知で!) 私ひとりにします。
ちなみに私の使う楽器にはガット弦が張ってあり、エンドピンも使いませんが、“バロック・チェロ”ではありません。ガット弦は第2次大戦後まで普通に使われていたのですし、19世紀の末までエンドピンはありませんでした。現代の楽器を使うとしても、音のためにできる選択は様々です。私は常々、エンドピンを使わない方がチェロの音は明るく明瞭になり、したがって良く聞こえるはずだと考えています。さてそれが本当かどうか、判断されるのは聴衆の皆様…いずれにせよ私の楽器から「脚」は生えてきませんが。
就職したばかりのエスターハーズィ家で、若く優れたメンバー達によって演奏された初期の協奏曲のあとには、晩年の大傑作、ハイドンの名をこの上なく高め、ゆるぎないものにした《ロンドン・セット》をお送りします。エスターハーズィ家におけるハイドンの正式な契約書は1761年5月1日付、そこから約30年経って、ハイドンにとっては二代目の当主、『豪奢王』と異名を取ったニコラウス・エスターハーズィが亡くなったのは1790年の9月、そこへやってきたヴァイオリニスト兼興行主、ヨハン・ペーター・ザロモンの招きを受けて、ハイドンがイギリスの地を踏んだのは1791年1月2日のことでした。
彼の人気はまさしく爆発的というべきもので、二度の訪英、全部で3年足らずの間に彼が稼いだのは手取りで約15,000グルデン、厚遇だったエスターハーズィでの給料約25年分です。初めて行ったにも拘わらずハイドンは存分に知られており、5月に予定されていたオクスフォード行きが仕事の都合で延期されたとき、それを聞いたオクスフォードの聴衆は暴徒と化しました。そこでハイドンは、「長い歴史を持ち有名なこの街を見ずに国を去ることはない」と訪問を約束する文を公表しなければなりませんでした。彼はオクスフォード大学から名誉音楽博士号を授与され、イギリスが世界に誇るシェークスピアに準えて称賛されました。その時演奏されたのが、《オクスフォード》の名で知られる第92番です。
ロンドン交響曲はどれも大人気で、全ての緩徐楽章がアンコールされました(当時の聴衆はその楽章が気に入ったらそこで大いに拍手し、その楽章をもう一度要求したのです。今では楽章間の拍手は敬遠されますが…)。
今回演奏するうちの一つ、第100番は《軍隊》の名で親しまれています。その名の通り軍楽隊のような打楽器群が第2・4楽章に現れるからですが、軍隊的イメージはここに始まったわけではなく、既に初期からハイドンの音楽のそこここに現れます。エスターハーズィでは軍隊が楽団と同様、公爵家の繁栄と秩序を表すものと考えられていたようで、ニコラウスが20年の歳月と1000万グルデンをかけて作らせた夢の宮殿《エスターハーザ》では、軍隊の宿舎と音楽家達のそれとが母屋からシンメトリーな場所に位置されています。しかしこの交響曲に現れる打楽器群は、必ずしもそんなに秩序正しいだけのものではないと私は思っていますが…さて、どうなるでしょうか。
エスターハーズィ時代の作品とは違って、《パリ・セット》と《ロンドン・セット》は今よりも大きいほどのサイズのオーケストラで演奏されました。ただしロンドンではプロもアマチュアもかなり混じっていたようで、演奏のクォリティがどうだったのか少々疑問の残るところではあります。今回のシリーズでは、全体のバランスを考えつつ、ステージに乗れるだけと考えています。
時代にそって人数が増え、規模が大きくなると、人はついつい初期を習作的で不完全なもの、後期を成熟し完成されたものと考えがちです。しかしハイドンの作品は必ずしもそうとは限らず、それぞれの時期に特有な個性と面白さがあるのです。それは私たちの人生に、若いときにしかできないことと歳を取らないとできないことがあるのにも似ています。
このシリーズを通して皆様が、奏者と共にハイドンのユーモアに心を躍らせ、滋味溢れる旋律に人生や「時」を考え、ハイドンの大いなる創作のエネルギーを感じとっていただけることを心から願っております。
S席:¥6,000 A席:¥4,500 B席:¥3,000
Y席:¥1,000(24歳以下・当日券のみ)
<インフォメーション>
[開場時間]開演の45分前
[演奏会時間]およそ2時間(休憩を含む)
<助成>